今だからこそ、丁寧な生活を
/「最近、やる気が起きないのです」、「先行きが見えないので、何をして良いのかわからないのです」、この様な相談をよく受けるのですが、穏やかに相槌をうちつつ「その感情、凄くわかる!」と、私は心の中で膝打ちし声をあげております。心理学を専門職とする者とは言え、私も人間なので、クライエントさんの抱えている不安な感情は共感できるのです。
メディアを覗けば、連日不安を煽る様なニュースが連立し、友人達とのビデオミーティングで話題に上がる事といえば、自身の健康の問題や身体の衰え、家族の介助の話。実際私たちの周りは不安の要素が溢れていて、「不安になるな」という方が無理なのでは?と感じるほどです。
仏教では、「もっともっと〜が欲しい」、「〜が無いから自分は不幸」と言っている間は幸福感は持てない。自己の幸せは、日常生活の中に、どれだけ他者から支えられているか、与えられているかの気づきがあり、そしてそれに感謝する事だ、という様な捉え方をしています。不安に感じる日常生活の中にも、小さなポジティブや他人からの親切を見つけていけられる人は、マインドフルな生き方をされているのだと思います。
ところが中には、小さなポジティブでは満足出来ず「いつも元気で気分が乗っている自分」、「やる気があって行動的な自分」などの”万全な自分”を求める傾向もあります。でもこれは人間として普通に起こる感情です。なので少しでも体調や気分が乗らない自分がそこに存在すると、”ダメなわたし”と言うイメージが苦痛の種となり、その苦しい思いをなんとか消そうと、感情との終わりの見えない戦いに陥ってしまいます。
あるクライエントさんは、「今日は100行動すべき所、今の自分はまだ25も出来てない。こんな結果だからもうやめてしまえ!」といういささか極端な結論に達し、25出来ている自分を、全く無視してしまうのです。私はその時、「やる気が出ない中、25も出来た事は評価しないのですか?」と尋ねますが、その方は「25は何もしていないに等しい」と捉えるのです。しかも、では明日は、今日出来なかった分の75をやるのか?と思いきや、「今日が25しか出来なかったから、こんなダメな自分は明日もダメに決まっている。だから負け戦には参戦しない」、という理論を繰り広げるのです。結局、最初の目標である「100を達成する」が、いつの間にか「達成なし」に終わってしまうのです。これはとても勿体ないなと思うパターンですが、完璧主義で努力家な方にはよくある例なのです。
私自身は努力家でも何でもありませんが、いくつか似た様な体験をしております。
当時、ガレージ内の棚がモノで雑然としていました。常々整頓したいと思いつつも、どこからどう手をつけて良いのか途方に暮れ、やる気が起きません。それは「今日片付け始めて、すぐに結果を出したい」という非現実的なゴールを無意識に自分にかせ、ストレスを感じていたからでした。暫くは「作業に取り掛かりたくない気持ち」で一杯になりましたが、取り敢えず棚1段から始めようと、重い腰を上げました。本当は苦痛で楽しくない作業ですが、まぁ、1段くらいなら出来そうだと挑戦したのです。程なくして1段終わってみると、埃も拭き取られすっきりとした棚がそこにありました。
しかしこの小さな達成感は「本棚全体をなるべく早く整頓したいから」、という気持ちにかき消され、感情の赴くままに、棚の上にあるガラクタを、取り敢えず彼方の棚に移動し、空いた棚をさっと拭いて終わり、という”簡易整頓作業”に変わりました。
この後、一目瞭然になったのは、1段でも自分の意識を整頓作業に集中させ、マインドフルに掃除をした棚の方が、はるかにきちんと整頓ができている事実でした。正直、1段の棚をきちんと整頓したからと言って、棚全部を整頓した時に味わえるだろう達成感はありません。ただ、1段目の整頓が終わったという、動かぬ事実のみがそこに存在するのです。
私の本来の目的は、整頓された棚を持つという事で、やっつけ仕事の早くて大雑把な整頓を目標にしてはないけれど、どうしても、乱雑な棚の存在に対する不快感に気がいってしまう。すると整頓作業の質よりも、如何に短時間で片付けられるか、それによってこの不快感と早くサヨナラできるか、という目的から逸れた対処法をとってしまった訳です。これは私の元々の目標ではないのに、不快な感情を消したいが為、肝心な作業(丁寧に綺麗に整頓する)が疎かになってしまったあらわれなのです。
以上はストレスを感じる行動の例でしたが、私の提唱する「丁寧な生活」は、掃除の様な作業だけでなく、自分の好きな事も含まれています。
例えば朝一で飲むコーヒー1杯を、如何にじっくり楽しみ、そして飲み終えたお気に入りのカップを丁寧に洗い、最後に綺麗にふきんで水気をとって、そのカップに感謝しつつ元の戸棚に戻す、、、そんなプロセスも楽しい「丁寧な生活」なのではないでしょうか。
、、、と、こんな事を書きながら、ふと思い出した情景があります。
私が以前観た、昔の日本の生活を紹介した映像では、自然と共存しながら日々の生活を重ねていく人々の姿がありました。何かエキサイティングや、煌びやかな出来事が起こる訳ではないのですが、羨ましい様な思いに駆られました。
子供は毎日、家畜に対して思いやりを持ちつつ、手入れ作業を手伝い、母親は夜鍋で丁寧に繕い物をし、父親は明日に備える準備を速やかに行う。雲行きが怪しいので、作業は早めに行つつも、手を抜かず丁寧にこなす。地味で地道な作業を重ねた生活、面倒を見なければいけない家畜がいるから、作物があるから手入れをする、感情に左右され作業を放り出す人はいません。
きっと子供は「手伝わずに友達と遊びたい」と思う日もあるでしょう。しかし、マインドフルにすみやかに作業を行うが故、手伝いたくない感情もやがて流れ去って行く、そんな術を知っているかの様でした。こんな子供のうちから、「感情とはそう言うもの」と悟っている様な生き方も、私が羨ましいと思った要素かもしれません。
今の私の生活は、やらなければならない事が山積みで、とても自分の思い描く様な理想の生活ではありませんが、肌寒い夜に入れた熱いお茶を飲む時、キッチンの片隅を掃除する時、出来るだけマインドフルに、丁寧に作業をしながら、その時は作業に没頭する、、、そんな機会を増やしています。それは予想を遥かに超える満足感を、時としてもたらしてくれます。
特に今、生活のリズムがスローダウンしている方には、是非挑戦して頂きたい、このマインドフルな「丁寧な生活」。トイレの片隅の掃除でも、一生懸命心を込めて掃除をすればピカピカになります。トイレ掃除なんてイヤだな、、、と四角いところを丸く掃く様なやり方で早く済ますよりも、トイレ掃除なんて嫌だけれど、どうせいつかはしなければいけない掃除だし、折角だから丁寧にやろう。そんな風に、マインドセットをシフトされては如何でしょうか?時に、家の一部が丁寧にケアされれば、他の部分も丁寧にケアしたくなるのが、人間の感情の流れの不思議です。
感情に踊らされて不安の火消しに回る生活よりも、日々の生活を、人生を、不安は不安なりにも、丁寧に重ねていきませんか?
追記:ワタシのちょっとひとこと。
私が以前日本に行った時に、たまたま出会った素敵なテレビ番組がNHKの「やまと尼寺精進日記」でした。ご存知の方も多いと思いますが、大和の山奥にある尼寺での生活を追っている番組です。お寺維持に関わる季節ごとの作業をこなしつつ、自然に逆らわずに共存している丁寧な生活がそこにありました。お寺はとても不便な山の上で、普段の買い物ですら大仕事。でも季節の食材を使った心の篭った精進料理や(これはご自身達の食事、参拝の方々へ振る舞われます)、冬到来前に準備するジャムや漬物など様々な備蓄食。そう若くない尼さんお二人と(失礼!)、お手伝いで入っている若い女性の三人生活では、不便な事や大変な事も多い筈。自然を肌で感じ、恵に感謝しつつ、繰り広げられるのは彼女達の日常なのですが、丁寧な生活を送ることで、素敵な時間を作っているなと思わせてくれる番組でした。
チャンスがあれば、また是非観て、もっと丁寧な生き方を学びたいと思った番組です。
道路脇の空き地に植えられた美しい花々は、行き交う人の目を楽しませてくれます。誰かのマインドフルな、「丁寧な行動」が、私たちを幸せにしてくれています。These are flowers to be enjoyed by the passers-by. Someone's mindful gesture brightens our day.